知っておきたい焼酎の歴史
今となっては、私たちの生活の中で当たり前に存在し、その種類も非常に多種多様な焼酎ですが、元々の起源など焼酎の歴史については意外と知られていないのではないでしょうか。
焼酎がいつから日本で飲まれるのようになったのか、また焼酎の起源は一体何かなど、ここではそんな焼酎の歴史について詳しく解説していきます。
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焼酎の起源
焼酎の起源については、実は正確には良く分かっていません。しかし焼酎に近い蒸留酒が作られていたのは11世紀ごろのタイ(当時はシャム国)を中心とした中近東・東南アジアであったと言われています。
焼酎の日本への伝来
その後どのような経路でこの焼酎の起源とされるお酒が伝播していたったのかについては定かではないとされていますが、日本に入ってきたのは、14世紀中ごろに中国から琉球を経由して入ってきたものとされています。
これは『使琉球録』という書物にある「南蛮酒」がそれを指していると言われています。南蛮酒とは中国の蒸留酒であり、タイから琉球へもたらされたものとなっています。
また記録に残っているものとしては、1404年と1407年に朝鮮の太宗から対馬領主であった宗貞茂へ送られた焼酎があるとなっていて、このことは『朝鮮王朝実録』に残されています。
焼酎が日本で飲まれていた記録
日本国内ではっきりと焼酎が飲まれていた記録に関しては、1546年に薩摩国を訪れたポルトガルの商人である、ジョルジェ・アルバレスが、日本人が米から作る蒸留酒を飲んでいたという記録を残しています。
米から作る蒸留酒とはまさに米焼酎のことであり、それはまさしく日本人が焼酎を国内で飲んでいたという記録であることに等しいと言えるでしょう。
さらに、1559年に行われた鹿児島県の郡山八幡神社の補修に従事した大工が「一度も焼酎を飲ませてくれないケチな施主」といった旨の落書きを残しています。これこそが日本国内における焼酎に関する最も古い記録と言えるでしょう。
さつまイモの伝来と芋焼酎
芋焼酎とは、サツマイモを原料とする焼酎です。そのため、さつまイモが日本に伝わってくるまでは作られることはありませんでした。
さつまイモの原産地はもともと中央アメリカであり、ヨーロッパ、インド、フィリピン、中国、琉球を経由して日本に入ってきたとされ、鹿児島に入ってきたのは1705年に、前田利右衛門が持ち帰ったのが最初と言われています。
当時作られていた米焼酎の原料である米は高価であったのに対し、痩せたシラス台地に適したさつまイモはその生産が容易で、積極的に栽培が行われていきました。
その結果、さつまイモの普及に合わせて、原料をさつまイモとする芋焼酎が多く作られていくきっかけが出来たとされています。
焼酎の区分の歴史
焼酎は日本に伝わり日本で製造されるようになってからも、その製造方法について新しいものが取り入れられることによって、新しい区分の焼酎を登場させてきました。
いわゆる焼酎甲類、焼酎乙類といったものがこれにあたります。ここでは、それらの区分が出来ていく背景や歴史について紹介していきます。
焼酎甲類の登場
焼酎が日本において製造されるようになった当初、その製造には単式蒸留器というものを用いていました。しかし原料の香りや特徴を存分に活かすことができ味わいのある焼酎となるものの、コストと手間がかかるものとされていました。これが現在の焼酎の区分における焼酎乙類と呼ばれるものです。
これに対して、1895年にイギリスから輸入された連続式蒸留器によって高純度アルコールを安価に大量生産できるようになり、「新式焼酎」として広まっていきます。これが現在の区分における焼酎甲類です。
本格焼酎とは
1949年の酒税法によって、焼酎甲類、乙類といった区分がされるようになります。しかしこの呼称は甲類、乙類に優劣をつけるものとしての誤解を与えるとして、当時霧島酒造社長であった江夏順吉によって本格焼酎という呼称が提唱されました。
その後の法改正によって本格しょうちゅうとしての呼称・記載が可能になります。(法令の条文はひらがな表記)しかしその定義があいまいであるとされたため、2002年の一部法改正によって本格焼酎と名乗るための条件が決められました。