知っておきたい!ビールの歴史
ビールの歴史は古く、紀元前4世紀頃のメソポタミア文明から始まり、現在に至まで脈々と受け継がれ、様々なスタイルへと変化しながら今なお多くの人に愛飲され続けています。そんなビールの歴史についてビールを飲みながら話せる知識として覚えておきたいポイントをまとめつつ、解り易く世界のビール史を紹介していきたいと思います。
飲んで語れる、そんなまめ知識としての知っておきたいビールの歴史を、ビールの始まり、ホップの登場、そして現在のビールへと至るまで一緒に勉強していきましょう。
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ビールの始まり
紀元前4世紀頃のメソポタミア文明時代、シュメール人の手によって作られたと言われている粘度板に、大麦を使って作っていたとされる資料が記されており、これが現在に置けるビールの歴史の最古にあたるとされています。
また紀元前3世紀頃の古代エジプトにおいてもビールの痕跡らしき資料が出現しており、小麦の原産地が西アジアである事も含め、メソポタミアよりエジプトへビールの製法が伝わったのではないかと言われています。どちらの資料にも明確なビールの製法については記されておらず、詳しい事は解っていませんが、この時代のビールには大きく分けて2種類の説が存在します。
1)パンを作ってビールにする製法
この方法は、現在でもエジプトでイスラム教の戒律の裏で密造されている酒の作り方にもなっている製法で、麦芽を乾燥させてから粉末にし、水で練って焼き上げパンのようにし、コレを水に浸す事で麦芽の酵素が糖化を進行させてアルコール発酵する仕組みを用いた製法です。
これはつまり、製粉が難しく昇華の良くない大麦を、食べ易い麦芽パンにする技術から派生したビールの製法であり、飲み物と言うよりは食べ物という扱いの強い日常飲料として存在していて、スープの様な物、そのため王墓建設の職人達へ配給された食料のリストにも、ビールが記録されています。
2)現在のビールにも通じる製法
説①のビールが食べ物的立ち位置であるのに対し、説②のビールは現在同様、アルコール飲料としてのビールを作る製法です。エンマー小麦を原料に、麦芽と、煮て柔らかくさせた麦を合わせ、酵母を添加させる事で発酵させる製法であり、糖分や風味をつける目的のため、ナツメヤシを加える事も行われておりました。
また近代ビールと近くて面白いと感じるのは、エジプトへと伝来したビールが気候条件により腐り易かった為に、ルピナスを添加させて防腐加工を行った所です、バビロニアでのビールでも同じ様な状況となり、様々な薬草を加えて対策をしたようですが、その中にはホップも含まれたとされており、現在でのインディア・ペール・エールが長い渡航期間で腐らないように大量のホップを使用した事で特徴の有る味わいとなった経緯にも似ているのです。
紀元前1700年代のビールと法律の歴史
現在ではビールを飲んでの運転や未成年者の飲酒は法律で厳しく罰せられますが。紀元前1700年代に登場した初めての成文法である"ハムラビ法典"でもビールを取り巻く法律が制定されているのです。
この頃と言うのは各所にビールの醸造所が建設されており、現在で言うビアホールの様な店も出現し、それらを取り締まる為の規制や、違反者に対する(店も客も)罰則が設けられていました。
例えば、「ビールを水で薄めた者は水の中へ投げ込まれる」と言った物や、「ビアホール内で反逆の密議をしている人間を見つけた場合は、速やかに店の店主へと報告しないと同罪に処す」と言った様な法律でした。
ビールVSワインの歴史
北方のケルト人やゲルマン人に伝わったビールの製造技術は彼らの習慣等により変化し、麦芽の粉末をそのまま湯に浸して糖化しアルコール発酵させる醸造法が行われ、食べ物では無く飲み物としての色合いが強く、特に穀物の収穫祭等で特別な飲料として振る舞われる物として醸造されてる傾向にありました。
そんなビールはローマに伝わり、エジプトから伝わったビールを"ジトゥム(Zythum)"、ケルト人経由で伝わったビールを"ケルウィシア(Cervisia)"と呼ばれましたが、ローマと言えばワイン!とくにこの頃のローマ人は自らの事を文明人と自認しており、ビール自体を「野蛮人が飲む飲み物」として扱っており普及しなかったのです。
「泥酔=悪」の構図はこの頃にもあった
お店で飲み過ぎて潰れる人、泥酔して道端で寝てしまう人、酔っぱらって人に迷惑をかける人、こういう人達は近年でも沢山居て、金曜日の夜はサラリーマン達が駅前でへべれけになっている姿を良く見かけますし、「こういうのはダメ」と言う風潮もありますが、実は既にこの頃にも泥酔は良くない事とする風潮がありました。
当時のローマで飲まれていたワインは、固いパンを食べ易くする為のブドウジュースを長期保存出来るように濃縮しているという形だったため、糖分があまりアルコール転化されておらず、かなり甘みの強い飲み物であり、硬水だったローマの水を飲み易くする為に水に加える飲み物としての側面も持ち、酔う為の飲料では有りませんでした。
そのため、そもそもワインをストレートで"酔うため"に飲む、という行為は野蛮人の作法であり、それもあってか北方種族の人達が収穫祭等でビールを飲んで泥酔する様は、軽蔑の種ともなっていたのです。
「ビールという飲料は、大麦や小麦等から作られており、いくらかワインとも似ているのだが、品位の下がる液体である事は間違いが無い。 ゲルマン人達は渇きに対しての節制がなく、その酒癖を欲しいままにさせるならば、彼らは武器を使用せずとも悪癖によって征服されるだろう」と揶揄された言葉も残っています。
修道院ビール(トラピストビール)の登場
さあ、みなさんお待ちかねかも知れませんが、ついに今でも多くの人達を魅了し続けているトラピストビール、つまり修道院で作られるビールが登場します。
あれだけローマ人から嫌われていたビールですが、ゲルマン人主導のフランク王国が成立すると、ヨーロッパ全土で盛んにビール醸造が開始され、ビール文化がヨーロッパに根付きました。そして先ほどまでは甘いだけの飲料だったワインも、現在の製法に近づき、甘みが無くアルコール度数の高い飲料へと変化、それによってアルコール度数が低いビールとの立場は逆転し、"ビールは子供でも飲める飲み物"という扱いへと変化したのです。
そのため、キリスト教の普及とともに、修道院では自給の為と、巡礼者に振る舞う為のビールを醸造するようになり、発酵を安定させる為に調合されたハーブ「グルート」を添加するようになり、ビール醸造技術の発展に貢献しました。
ホップの登場
紀元前から保存の為に使われていたのではないかと言われているホップですが、明確に意図してビールの醸造にホップを使用したのは、11世紀頃のドイツ、ルプレヒトベルグ女子修道院のヒルデガンディス院長が、既存のグルートでは無くホップを使用する事で、ビールの品質が飛躍的に向上したのがきっかけです。
独特のさわやかな風味と高い雑菌抑制効果が現れ、15世紀にはドイツのビール醸造で主流となり、かつては使用を禁止していたイギリスも17世紀頃にホップを使用したビールの醸造を開始しました。
グルートビールVSホップビール
ホップの方が優れているならホップビールばかり作れば良いじゃないか!と思うかもしれませんが、実はハーブを調合したグルートには利権があったのではないかと言われていて、ビールに適しているグルートのレシピは明かされておらず、領主によって管理しており、醸造業者はこのグルートを領主から購入する他無かった為、グルート派は利権を奪われたくない事もあって激しい競争が起きたのです。
ビールは「大麦・ホップ・水」しか使っちゃダメ!
ドイツでは1516年に「ビール純粋令」が出され、ビール作りには大麦とホップと水しか使ってはいけないと定め、ビールそのものの定義を決定しつつ、ビール自体の品質を維持&向上させました。その後のドイツ帝国成立によって1906年には全土に施行され、現在のドイツでもビール純粋令は効力を持っています。
ビール作りすぎて食料がなくなる!?
ビール純粋令が施行された裏側には、粗悪なビールが流通するのを防ぐという意味の他に、本来は食料となるはずの小麦がビールの原料となってしまい、それによる飢餓を防ぐという意味も有りました。この頃からドイツ人はビールが好きで好きで仕方が無かったのでしょう(笑)
しかしドイツと言えば白ビール(ヴァイスビア、ヴァイツェン)、これは小麦を原料としているビールです。実はこのビール純粋令によって小麦を使った白ビールは許可を得た一部の醸造所でしか作る事が許されず、それゆえに希少価値高まっていったのです。
ちなみに、15世紀の中頃には、低温の洞窟で熟成させるラガービール(下面発酵ビール)が登場しています。
みんな大好き!ピルスナービールの登場
ラガービールの登場を皮切りに、19世紀には酵母の研究が進んだ事で、下面発酵ビールや上面発酵ビールの技術が確立され、1842年のチェコはプルゼニにて、世界で最初のピルスナービールとなり今でも愛される名作「ピルスナー・ウルケル」が製造されたのです。
ピルスナーと言うのは、このスタイルの醸造を行ったプルゼニ(Plzeň)のドイツ語名からそう呼ばれるようになり、美しい黄金色のビルスナーはガラス製品の普及と、冷蔵技術の確立によって爆発的な人気を獲得したのです。
日本におけるビールの歴史
わが国にビールが入ってきたのは、英米の船が航来するようになってからです、1860年に幕府の第一回遣米使節の1人であった玉虫左太夫が初めてビールを飲み、「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」という言葉を書いています。
実はそれ以前の1853年、ペリーが来航した時に、蘭方医の川本幸民が蘭書の記載を見て、江戸の自宅でビールの試醸を行っているため、これを日本のビール醸造の起源としています。ビール醸造が活性化していくのは明治に入ってからですが、江戸時代の初期には徳川幕府の幕僚達が、その存在を認知していたのも面白い話です。
日本での本格的ビール醸造
明治3年に入り、アメリカ人の"ウィリアム・コープランド氏"が横浜の山手居留地にて、「スプリング・バレー・ブルワリー」を創設して、ビールの醸造を本格的に開始、これはそもそも居留外国人向けの販売が目的でした。
そして明治5年には大阪で渋谷庄三郎が、明治6年には甲府で野口正章が、明治9年には札幌で北海道開拓使麦酒醸造所を中川清兵衛が。こうして日本のビール産業は黎明期を迎えるのです。
現在のビール
19世紀の後半に、デンマークのカールスバーグ社が開発した技術はビールの普及にかなり大きな英影響を与えました。同社は、ビール酵母の純粋培養技術の開発、雑菌を徹底的に排除した缶詰や瓶詰め技術の確立、これらの技術によってビールの保存性は飛躍的に向上し、ビール生産は安価で大量に安定供給できる工業製品としての位置を確立。
それによってビール産業は大企業に独占される形となり、低価格なビールは"日常の酒"という地位を確立し、全世界で愛飲されました。
しかしこの反動で、工業化以前のビールであるトラピストビールやクラフトビールを見直す動きが強まり、日本では平成6年まで、ビール製造の免許は最低でも年間に2000kl作らなければ与えられなかった規制が緩和され、年間60klでもビールの製造が行えるようになり、日本各地にもマイクロブルワリーと呼ばれる、つまり「地ビール」を作る醸造所がふえてきました。