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起源は?発祥は?知られざる豆腐の歴史

豆腐の歴史

夏は冷えた冷奴で、冬は温かい鍋で美味しくいただける豆腐、健康にも良いと言うことで注目を集めています。その豆腐の歴史をご存知の方はどれだけみえるでしょうか?

豆腐の歴史は古く、そして現在もその歴史を刻み続けています。そんな歴史を知ることで、この豆腐の奥深さの一端に触れ、より豆腐を美味しく食べられるようになるかもしれません。

こちらでは豆腐の知られざる歴史についてご紹介してきます。

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豆腐の起源と発祥

豆腐の起源と発祥

豆腐の歴史を紐解くためにも、その起源と発祥から見ていきましょう。

最も古いルーツ「淮南王・劉安の発明」

豆腐の起源は諸説あります。その中の一説に、16世紀(1601~1700年)に編纂された「本草網目」に紀元前2世紀前漢時代の淮南王で優れた学者でもあった初代皇帝の孫・劉安によって発明され、部下に作らせたのが始まりと記載されています。

しかし根拠はこの書物のみであり、真偽については明らかではありません。豆腐の原料となる大豆は遅くとも紀元前2000年ごろまでには中国の広い範囲で栽培されていたと考えられており、大豆加工食品は前漢時代のからも出土しています。

その他にも稲・小麦・大麦・黍・栗・小豆・麻実が納められていました。稲は、籼稲・粳稲、粳米・糯米、長粒・中粒・短粒が並存しており、当時の稲の多様さが見て取れると共に、穀類や豆類の生産が盛んだったことが伺えます。

馬王堆漢墓は前漢初期に長沙国の相を務め、初代軑侯となった政治家・利蒼とその妻子を葬る墓地です。黎朱蒼の名の方が有名かもしれません。彼の没年は記録によれば紀元前186年とされています。

それに対し、劉安は紀元前179年から紀元前122年を生きた皇族です。出土した大豆が副葬品として利蒼埋葬時に納められたもので、利蒼と劉安の活動年代が史実通りであれば劉安が生きた時代に大豆は存在していたことになります。また中国古来の製造法では石膏(硫酸カルシウム)を粉末にして水に溶いたものを「にがり」の代わりに凝固剤としていました。

劉安の製造法がそうであるかは定かではありませんが、石膏自体は紀元前7000年の古代エジプトには存在しており、ペルシャ時代からギリシャ、ローマ時代へと加工技術は受け継がれています

ローマ帝国と前漢の前に栄えた秦がシルクロードを通して既に交流をしていたことから、この石膏が伝わっていたとしても不思議ではありません。原料の観点からいっても前漢時代に劉安が豆腐を開発することは十分に可能だったと言えます。しかし、豆腐が宋以前に存在した形跡はなく、単なる伝説にすぎないと言われています。

朱子の豆腐詩に淮南王・劉安が豆腐を作ったと歌っています。朱子は1130年に生まれ活躍した儒学者とされており、宋は1127年に誕生したことから、この伝説が既に宋代初期から中期には存在していたことが分かります。

有力な起源「唐代中期説」

また一説として挙がるのは8~9世紀(701~900年)にかけての唐代中期にあると言われています。

実際6世紀(501~600年)の農書「斉民要術」には諸味や醤油についての記述はあるものの、豆腐の記述が見つからず、文献上「豆腐」という語が現れるのは10世紀(901~1000年)の「清異録」からとなっています。

これにより食物史学者の篠田統によって唐代には北方遊牧民族との交流によって、乳酪(ヨーグルト)や酪(バター)、蘇(濃縮乳)、乳腐(特にチーズ)の代用品として発明されたという説が唱えられています。

しかしこれも大豆を水にふやかして、石臼で磨り潰し煮たものの状態を腐熟の「腐」としう感じで表したのではないか、という反論もあり確かなものではありません。ただ現在最も有力な物としてこの唐代中期には製造されていたとされているのです。

豆腐は南宋末期にかけて一般に普及し、明朝や清朝の時代になると豆腐の加工も盛んに作られるようになりました。今日の中国南部や香港、台湾では滑らかな豆腐を冷やしてシロップを掛け、小豆やフルーツをトッピングして食べる豆花と呼ばれるデザートもあるそうです。

豆腐の伝来

豆腐の伝来

日本への伝来もいくつかの説があります。これも恰好たる証拠がなく、どれも確実な物が存在しないのが現実です。その中でも有力とされるものをいくつかご紹介してきます。

真言宗の開祖・空海による伝来

一般的に豆腐は先述の中国から日本に伝えられたと言われていますが、その伝来の1つの説として、真言宗の開祖・空海が伝えたと言うものがあります。

空海は平安時代初期の僧として有名ですが、804年に正規の遣唐使の留学僧として唐に渡りました。余談ですが、空海は官の許可なく農民から僧になった私度僧であり、国の使節であった留学僧に突如浮上したのは今日なお謎となっています。

空海が唐へ渡った遣唐使一行には、天台宗を開いた最澄や、橘逸勢、のちに中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいました。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていましたが、空海はまったく無名の一沙門でした。同時期に宗派を開いた者なのにそのスタートはエリートと庶民ほどの違いがあったのです。

話が逸れました。そんな空海は20年の予定の留学期間を2年で切り上げ帰国、闕期の罪にあたるとされ、2年間は入京を許されませんでした。最澄の尽力や支援もあり、入京した空海はやがて高野山にて真言宗を開きます。その際、修行食として供せられるようになったのが豆腐と言われたのが所以となっています。

空海は唐に渡り、都である長安に向かう途中、浙江省の二十八都鎮というところに長期滞在したおり、滋養強壮の薬の1つとして高野豆腐を供せられ、同時にその作り方も教わったとされています。

つまり、現在における高野豆腐が日本に伝来した最初の豆腐であり、その作り方は空海が持ち込んだと言う説になるわけです。実際、豆腐が文献に初めて登場したのは、平安時代末期である1183年に奈良・春日神社に納められた供物帖で神主の日記に記載された「春近唐符一種」という記述であると言われています。

鎌倉時代の帰化僧による伝来

しかしこれも有力なだけで確定の説ではありません。一説によれば平安時代には伝わらず、鎌倉時代に中国から帰化した僧によるものと唱える人もいます。湯葉やこんにゃくと共にこの時代に伝来したとみる説もあります。

ただもしこちらが正しかった場合は、上述の文献の唐符は全く別のものということにもなります。なぜこの説が浮上するかというと、こちらも中国から伝わった禅宗に因るものと言われています。

禅宗では修行の一環として肉や魚を避け、植物性の食品だけで作った料理を摂るようになります。これが所謂、精進料理です。そのためどうしても不足しがちなタンパク質を補うために豆腐は重宝されるようになります。

そのため禅宗の修行僧の中では特に豆腐が広まることとなり、認知度が高まっていたため鎌倉時代に伝来したと言う説も挙がってきたようです。いずれにしろ精進料理に代表される修行食として始まったのであれば、外に伝えられることも限られ伝来が曖昧となるのも仕方ないことかもしれません。

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庶民の食べ物としての豆腐

庶民の食べ物としての豆腐

精進料理の普及に伴い、貴族社会や武家社会に伝わり、室町時代になってようやく全国的にもかなり浸透したようです。ただ本格的に庶民の食べ物として取り上げられるようになったのは江戸時代と言われています。

豆腐が食卓に並ぶまでの道程

江戸時代初期においては、初代将軍家康や二代目秀忠が、うどんやそばと共に製造を禁止し、農民が普段の生活の中でそれらを食べることも許さないとする禁令を出しました。それほどの贅沢品として江戸初期では扱われていたのです。

三代目家光の時に出された「慶安御触書」でも豆腐は贅沢品として、農民に製造することを禁止することが明記されていました。しかし家光の朝食には、豆腐の淡汁、さわさわ豆腐、いり豆腐、昼の膳にも擬似豆腐などが出されており、贅沢品の独占をしていたことも資料から伺えます。

江戸中期になり庶民の食卓にもようやく出回るようになった頃も、製造は江戸や京都、大阪などの大都市に限られていました。また、この時代の豆腐は今日でいう木綿豆腐のみでしたが、製造の禁止はされなくなったものの、今度は物価統制の重要品目として江戸の奉行所から厳しく管理されるようになっています。

そのため「豆腐値段引下令」に応じない豆腐屋は営業停止にされるため、豆腐屋は自由に売値を決めることが出来ませんでした。

それでも江戸においては豆腐料理は評判でした。江戸時代に作られた狂歌に「ほととぎす 自由自在に聞く里は 海屋に三里 豆腐屋に二里」と言うものがあるほど、豆腐屋がいろいろな場所に作られたことが分かります。

その当時の豆腐屋の1つに、木綿豆腐しかない中、新しい豆腐として初めて絹ごし豆腐を売り出した、現在も続く老舗店「根ぎし 笹之雪」があります。

庶民に愛される豆腐料理

当時、豆腐の田楽は庶民に親しまれたものであり、豆腐を串に刺して焼き、赤味噌をつけて食べる料理でした。しかし広がり始めた頃は、あまりバリエーションもなく料理の種類も少なかったようです。しかし、ある本がその状況を一変します。

1782年(天明2年)には100種類の豆腐料理を紹介した「豆腐百珍」が刊行され爆発的な人気を呼び、翌年「豆腐百珍続編」、翌々年「豆腐百珍余禄」が出版されたほどです。計3冊に渡り紹介された料理は約240種となっていました。

今は少なくなりましたが、この当時から豆腐は行商販売もされており、明治時代になるとラッパや鐘を鳴らしながら売り歩くようになっています。

これは関東地方のある豆腐屋が、乗合馬車や鉄道馬車の御者が危険防止の為に鳴らしていたものを「音が"トーフー"と聞こえる」ことに気づき、ラッパを吹きながら売り歩くことを始めたものです。こうして豆腐は一般的な食品となり、庶民に愛されるようになりました。

手工業から機械化へ

そうはいっても手作業での製造には限界があり、大量生産とまではいかないのが現状でした。それを打開したのが近代工業の発展です。

豆腐の製造作業も機械化が進むこととなり、わずかな大豆から効率よく豆腐が大量生産できるようになって、より安価で提供されるようになりました。安く手に入れられるとなれば、より庶民の生活に根付いていくこととなります。

これが現在まで続き、豆腐は非常に一般的な食品として扱われ、そのまま調味料をかけて食べられるほか、様々な料理に用いられています。それだけではなく、今日では健康食品やダイエット食品としても注目され、より支持されるようになりました。

欧米諸国への広がり

この注目は何も日本国内だけではありませんでした。20世紀末期以降のアメリカを始めとする欧米諸国では、高カロリー・高脂質の動物性食品や嗜好食品を多く摂る不健康な生活習慣への反省と健康的な食品への関心が高まりました。

その際、注目を集めるようになったのが日本食でした。魚や野菜をはじめとして低カロリーで脂質も少なく、まさに健康的な食事であると言うことが知られ、各地で日本食ブームが起こるようになりました。

その中でもやはり手に入れやすく、調理がしやすい豆腐は注目の的となりました。また健康の視点から低カロリー・高タンパクであることも、優れた食品として豆腐が注目集める要因となったようです。

現在では欧米諸国の食料品店で日常的に売られる食品となり、一般的な家庭でも使用する姿が見られるようになったようです。

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